
イギリス軍がイラクから去ろうとしてる。このことはブレア在任中から決まっていたことだが、自衛隊が駐屯したムサンナー県をはじめ、管轄の南部4県から段階的に地元自治体に一切の統治を引き渡すというもので、計画は最終段階に来ている。現在のところイラク第二の都市バスラを含むバスラ県のみを管轄しており、兵士のほとんどはバスラ市郊外の飛行場にある基地を寝床にしている(いくらかはイランとの国境沿いに展開しているという情報もあるが定かではない)。軍や警察の教練を担う者を中心にいくらかは残るが、年末までに5,500人いる兵士のほとんどが撤退する予定だ(そしてアフガンに軸足を移す)。
ブリュッセルに拠点をおくシンクタンク、International Crisis Group が6月に発表した「Where Is Iraq Heading? Lessons from Basra」(イラクはどこへ向かう?バスラの教訓)はそんな見方を否定している。
バスラはイギリス軍からイラク側に権限委譲の移行期にあるが、それにもかかわらず公的機関の崩壊がみられる。2006年~2007年3月まで、Operation Sinbad(シンドバッド作戦)は、比較的うまくいっていた。しかし、それは表面的なものであったようだ。2007年3~4月には再び治安が悪くなってしまった。バスラ市民や民兵はイギリス軍の撤退は計画にそったきちんとしたものというより、惨敗によるものと見なしている。今日、街を支配しているのは民兵であり、以前より強力になり自由にふるまっている。政界では血で血を洗う抗争が繰り広げられ、政府機関は台無しにされ、市民には支配的な勢力に守ってもらう以外に選択肢がない。このことは、シーア派が圧倒的多数をしめるバスラであってさえ、政治プロセスの進行やより包括的な政治合意なしで、復興も、民兵に対処することもできないということを示している。また、一般的に思われているほど、生まれや歴史や民族で単純にこの国を区分けできないし、イラクのコミュニティーが単純にきっちり3つに分けられるという見方が誤りであることも示している。
http://www.crisisgroup.org/home/index.cfm?id=4914&CFID=24787657&CFTOKEN=19597028
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キリスト教保守層に人気と言われる、クリスチャン・サイエンス・モニターだが、その最新のバスラ報告も、現状は厳しく、前途は多難であり、イギリス軍撤退後のバスラが、イラクの将来を予想するものとなるかもしれないと説いている。
【イギリス軍がバスラから撤退するにつれて、シーア派同士が力の空白地帯をうめるべく争う】
~この街でおこることが、イラクの他の地域の将来を知る機会を与えてくれるかもしれない~
クリスチャンサイエンスモニター(2007/9/17)
2003年4月6日、イギリス軍がバスラを攻略したとき、彼らの砲弾は、もだえ苦しむサメをまたぐイラク兵の彫像を傷つけた。その彫像は、サダム・フセインが1988年のイラン・イラク戦争の終了を記念して作らせたものだ。泥棒が兵士を盗んでいった。
だが、イランを表しているサメは残っている。
イスラム共和国(イランのこと:Islamic Republic of Iran)の影響は、実際にバスラ全体で感じた。バスラはイラクで2番目に大きい街だ。シーア派の党、民兵、犯罪組織のすべてが権力をめぐる卑劣な闘争に没頭している。県都の住民の間では、イランに訓練されたスリーパー組織が準備万端であるというような話でざわめきたっている。
今月はじめのイギリス軍の撤退は、専門家によると5,500人いるイギリス軍の完全撤退にむけた始まりであるが、このことがバスラの将来をかなり不安にさせている。つまり、イランは戦略上の地盤を一層固めるのか?シーア派の民兵が街頭を仕切るのか?イラク軍は敵対する諸派をなだめるのに十分な力があるのか?といったことだ。
この街でおこることが、イラクの他の地域の将来を知る機会を与えてくれるかもしれない。
街は、民兵、恐怖、えこひいき、ビジネス界による危ういバランスの上になりたっている。イラク人はみな恐怖の只中にいる。しかし、バスラにおける暴力と恐怖は、ほとんどの場合、スンニ派シーア派間の抗争によるものとは無関係だ。アルカイダとも関係がない。
バスラはシーア派の街といえる。しかし、誘拐、暗殺などの恐怖が染み渡っている。
この不安定さは、イラクの暴力が、宗派や暴徒の活動の結果によるだけでなく、政治的、部族的対立関係や、権力抗争の高まりによるものであることを露呈している。
「私は、アメリカ軍とイギリス軍の戦車がやってきたときに、イラクに戻ったんです。ことは有望にみえました。私たちは、民主的で寛容な国という夢が実現するのではないかと思ったんです」と、ある大学教授は言った。クリスチャン・サイエンス・モニターが行った最近のバスラ取材旅行におけるインタビューで、ほかの多くの人々同様、彼も民兵の報復を恐れて匿名にするよう求めた。「夢はたたれたまま。私はいまとらわれの身のような気分です。まったく悲観的。出口をさがしているんです」
イギリス軍は必要とあらば戻ってくるといっている。9月5日の声明では、イギリス国防省は撤退にもかかわらずバスラ県の「警備責任は保持する」としている。彼らは年末までに県当局にすべての管理を引き渡すつもりだ。
「治安状況によって、イラク治安部隊を支援できるだけの力量を軍は維持する」と言っている。
とはいえ、イギリス軍は、危険を冒してまで戻ってくるのだろうか。というのも、そうすると彼らはマフディー軍の群れと対面せざるをえないからだ。ムクタダ・アル・サドルの民兵は、イギリス軍が今月上旬にイラク軍に引き渡すまで自軍の基地としていた、市の中央にあるフセイン時代の城をずっと標的にしてきたのだ。
サドル師派とマフディー軍・・・17,000人のマフディー軍民兵
広告板はイギリス軍との戦闘で殺害されたマフディー軍民兵を称えている。街路には彼らの名前が掲げてある。イギリス軍の撤退を、マフディー軍は勝利と主張する。彼らは当初から占領軍に対する抵抗をリードしてきた。9月8日、サドル氏のポスターを振りかざし、「勝利の行進」と吹聴しつつ、何千人ものマフディー軍民兵が車にのったり徒歩で中心街を練り歩いた。
「彼らは、<我々を追い出したのは自分たちのおかげであるとする間違った主張>を通そうとしている」と、イギリス軍の広報担当官、Mike Shearer少佐は言っている。
シーア派間の抗争で、サドル氏の民兵(マフディー軍)はもっとも恐ろしい勢力として浮かび上がる。
イラクの治安担当高官によると、民兵はバスラだけで17,000人がおり、40部隊に分かれていると言われている。ローカルリーダー、Muntasir al-Malikiは、5月下旬にイギリス軍に殺された司令官にとってかわったのだが、彼のことはあまり知られていない。ただし、数年前、父親を前政権の熱烈な支持者であったという理由から殺害したと言われている。
14,500人強の警官のうちいくつかの部隊を掌握しており、病院、教育委員会、大学、港湾、石油ターミナル、石油製品、電力分配会社を支配していると、バスラを本拠地にしているイラク人研究者は言う。
マフディー軍の影響力は疑いようがない。これはクリスチャン・サイエンス・モニターが目撃したことだが、8月24日の会議で、マフディー軍の指揮官2人は、26人の仲間の解放の見返りに、撤退中のイギリス軍に攻撃しないことをイラクの治安担当高官に誓っている。
駐留連合軍司令官のデイビッド・ぺトレイアス将軍は、このことを9月11日の上院における宣誓証言で語っている。また、全国のマフディー軍には、バスラの北に位置する、カルバラ県でおきた8月下旬のシーア派内の衝突の後、活動を6ヶ月間凍結するというサドル氏の命令も下っている。だが、ここでそれが守られるのか誰にも分からない。
「抵抗するかどうかは中央の決定によるが、それも状況次第でイラクの場所ごとに違うかもしれない」と、バスラを本拠地にしているあるマフディー軍指揮官は曖昧にした。
彼は、今すべてのイギリス兵が拠点としている航空基地より向こうに届くロケット弾をマフディー軍がもっていることや、「今からこの先ずっと必要を満たすだろう」前政権から続く膨大な武器のストックを管理していることを自慢している。
実際、9月5日に兵士1人が殺害されたが、それは宮殿から撤退した翌日のことだった。これで2006年の一年間で29人に対して、今年42人目の兵士の殺害となった、とイギリス軍は言っている。
アメリカの関係筋が主張するイランのマフディー軍とのつながりは、実際、存在すると、バスラの研究者は言う。これらテヘランが支持するグループは、「スペシャルグループ」として米軍の公式発表で頻繁に言及されている。
支援の形は例えば、イランからの無償の食料配送というもので、到着後は市場で売られると、研究者は言う。彼が言うには、その売り上げは、Khamsa Meel や Hayaniya といったマフディー軍が支配する街の武器市場で武器の購入にあてられる。
「サドル師派の活動は、基本的にバスラ政府の中の政府で、占領軍と対決することができます」と、彼は言う。「誰もあえて口にはだしませんが、本当のところサドル氏派の活動を仕切っているのが誰かは知りません」
今や、イギリスはほとんど重要でなくなったため、マフディー軍は主たるライバルに矛先を向けると多くの人が予想する。すなわち、イラク・イスラム評議会(SIIC)、またはイラク人にとってはシンプルに、the Majlis、あるいは、Councilとして知られている団体にだ。それは、マリキ首相の連立与党の一躍をになっているシーア派主体の政党である。
〔解説1〕カルバラでの衝突
8月28日、中部のシーア派の聖地カルバラで開催されていた宗教祭典で、マフディー軍と警備にあたっていた警察部隊で撃ち合いになり、巡礼者ら52人が死亡、300人以上が負傷した。翌日、サドル師は、マフディー軍の活動を6ヶ月停止すると発表。サドル師が同軍を統制できなくなっていることが理由とみられる。なお、警察部隊の大半はマフディー軍と敵対するイラク・イスラム評議会(SIIC)系のバドル機構に忠誠を誓う者たちだった。
http://www2.asahi.com/special/iraq/TKY200708300380.html
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/28/AR2007082800303.html
〔解説2〕イラク国会と与党
国会は一院制。国民議会と呼ばれる。連立与党は、定数275に対して、統一イラク同盟(UIA)の85と、クルド同盟の53をあわせて138議席。過半数をわずか1議席上回るという厳しい状況だ。(2007/9/16現在)
〔解説3〕統一イラク同盟(UIA)
イラク最大の政治連合体。イラク・イスラム評議会(SIIC)とサドル師派がともに最大の30議席を擁する。UIAからは3月に15議席のファデラ党が離脱。サドル師派も9月15日についに離脱を発表。なお、マリキ首相が率いるダーワ党も所属するが10議席程度。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070916-00000055-mai-int
http://en.wikipedia.org/wiki/United_Iraqi_Alliance
*ウィキぺディアのUIAの議席数は2005年12月の選挙直後のものと思われる。
つづく
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